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書評

 

「中野剛志著『自由貿易の罠』」
『図書新聞』2010313日号、5頁、所収

橋本努

 


 

 20089月のリーマン・ショック以降、アメリカでは「バイ・アメリカン条項」が議会を通過し、自国経済に有利な産業政策がとられるようになった。だがこうした保護政策を諸国が採用すれば、国際貿易の規模は収縮してしまうのではないか。見識あるエコノミストたちはおしなべて保護主義化の傾向に警鐘を鳴らしているが、本書の立場はこれと正反対。保護主義の政策は、格差を克服するための手段としても、国富を増大させる手段としても、すぐれているというのだ。

 反動的に聞こえるかもしれないが、じつは保護主義を擁護するエコノミストも意外と多い。アメリカのクルーグマンや、フランスのE・トッドなどはその代表だ。本書は彼らの知見をベースに、主流派経済学の自由貿易論を批判する。

およそ自由貿易擁護論には二つの柱があるだろう。一つは理論であり、もう一つは歴史的教訓である。理論的な原理として自由貿易を擁護することは正当だが、現実は理論よりも複雑だ。実際には、保護貿易を認める余地が十分にあるだろう。また歴史的にみて、例えばアメリカにおける1930年代の保護主義政策は世界恐慌を悪化させたといわれるが、そうした通念は、一部の研究者たちによってすでに覆されていることが本書で紹介される。また本書は、バグワティの洗練された歴史的自由貿易擁護論を、詳細かつ的確に批判している点に光るものがある。

加えて本書は、自由貿易が先進国に有利に働かないと論じる。先進国で自由貿易を受け入れると、市場における競争は「底辺への競争」となる。すると労働者の賃金水準は、途上国の労働者の賃金水準へ向けてかぎりなく低下する。結果として所得格差が広がり、国は統治上の困難に直面する。一部の成功者たちが法外な利益を得るとしても、多くの人々は生活を改善することができなくなる。

自由貿易を続けるかぎり、多くの人々の実質賃金は上がらず、したがって内需拡大による経済成長を見込むことはできない。これは自由貿易がかかえる「罠」である。日本社会が全体として自由貿易によって利益を上げたとしても、国民の内需は回復せず、国内経済は停滞してしまうだろう。

では新興国における内需拡大に期待できるのかといえば、そうとも言えない。例えば中国では、社会保障制度が十分に整備されていないため、人々は容易に貯蓄率を低下させることができない。国民の社会的権利が保障されなければ、人々は将来への不安を払拭できず、国内需要は拡大しないと考えられる。総じて言えば、新興諸国の内需が拡大するまでには相当な時間がかかるのであり、いま日本が産業政策として採るべき道は、保護貿易、すなわち関税の引き上げによって国内産業を保護し、労働者の賃金水準を引き上げ、それでもって内需を拡大する。そしてその内需によって新興国からの輸入を増加させ、国際貿易を活発にすることではないか。実に保護貿易は、先進国における輸入の増加によって世界経済を活性化することができる、と本書は論じている。

 一つの筋の通った論理であろう。ただ保護主義政策によって多くの労働者の賃金が上昇したとして、その増加分は本当に内需拡大に結びつくのか。日本経済がこれから少子化と人口減少によって収縮していくことを踏まえると、人々はますます将来に備えて貯蓄率を上げるのではないか。問題はきわめて実証的なものだ。いったい賃金の上昇によって、どの世代のどの階層の人々が、どれだけ消費率を上げる傾向にあるといえるのか。その予測値を踏まえて、保護主義の是非、すなわち関税率の水準を検討したいものである。

 私見によれば、関税率の問題は、諸外国との関係を考慮して、諸国の民主化や、その他の社会発展を促すように設定されなければならない(拙著『帝国の条件』参照)。これに対して本書では、関税率についてなんら政策提言はなされていない。保護主義を擁護するためには、関税率の基準となる理論や理念を提示すべきであったのではないか。抽象的な次元で国富増大のために保護主義を擁護するというのでは、総論の域を出ない。

 にもかかわらず本書が意義深い理由は、著者が一官僚として所属している経済産業省の公式見解、すなわち「自由貿易の堅持と推進」という主張に真っ向から反対しているためだ。著者によれば、現在の経済産業省は、かつて保護主義によって悪名高かった通産省と比べると、きわめて敬虔な自由貿易論者となっているという。彼らがいま恐れているのは、自由貿易の原則からの逸脱を認めてしまうと、国家は特定の利益集団によって操られ、ゆがんだ利益誘導政治を招いてしまうのではないか、という問題だ。

だが自由貿易のルールには、かならず例外がある。ルールを厳格に運用するのではなく、それを解釈するエキスパートの頭脳を柔軟にしなければ、関税問題に優れた対応をすることができない。そのためには数理的な経済学で頭をいっぱいにするのではなく、パースやデューイなどのプラグマティズムを中心とした、哲学的教養によって政策を導こうというのが著者の狙いだ。争われているのは政策の正当性をめぐるシンボリックな政治である。政策内容よりも、政策担当者の教養と理念を問うところに、本書の醍醐味があるだろう。